三河花火の元祖と言われる稲富伊賀守直家(又は祐直、後の一夢、一夢斎)の数奇な運命を辿る。
天文20年(1551年)頃、京都丹後で生まれ、1611年駿府で没す。祖父直時(1508年〜1567年、一色家家臣で丹後の支城を領する)が佐々木義国から伝授されたという中国砲術を学び、さらに創意を凝らして稲富流砲術を開祖し、始めは一色家に仕えていた。丹後一色家滅亡後、天正10年(1582年)頃細川忠興に鉄砲指南役として召抱えられる。
秀吉の朝鮮出兵に従軍し、大活躍した事で、その名は全国に広まったようです。しかし慶長5年(1600年)の関が原合戦の直前、石田三成は西軍武将の妻子を人質として大阪城に入れる事を画策し、細川忠興の妻(ガラシャ夫人)確保の為、屋敷に兵を送るが、戦闘の中、夫人は人質になるより死を決意、愛児を刺殺し自害してしまった。此の時屋敷を少数の兵で警護をしていた稲富直家は殉死せずに逃亡の道を選んだ、<〜三河煙火史>これが後に忠興の逆鱗にふれ、剃髪して一夢と名乗り流浪の身となった所を、当時の佐和山城主井伊直政が密かにかくまったようです。井伊家は関が原以後彦根城に移封され慶長6年(1601年)の彦根藩家臣に稲富一夢として名を連ねているとの事です。<〜彦根市公式HPによる>。
これを知った家康は直ぐに徳川家として召抱える事なり、大阪の陣では稲富一夢を介して国友に発注したといわれる大筒が夏の陣の勝敗を決定付けた。
江戸に出仕した一夢は同じ砲術家の井上外記を口論のすえ、斬ってしまい、尾張の清洲城藩主・徳川忠吉(家康の4男)に預けられ仕える事になったが、忠吉もまもなく死去した為、慶長12年(1607年)家康9男徳川義直が尾張藩初代藩主となる折、この義直に仕えた。1607年ごろは家康が駿府城に隠居した頃で、当時6歳位であった義直は藩は城代に任せ、駿府の家康の元で教育をされたとの説もあるが、この辺りははっきりしませんが、1613年の家康花火見物の折は、息子3名共観覧しています。稲富一夢も時期がはっきりしませんが、駿府の家康に鉄砲指南として呼ばれ、慶長16年(1611年)駿府城で死去している。
この駿府でまとめたであろう「一夢流・一流一辺の書」は後世の砲術家の手本とされた。砲術の歴史は1543年の種子島鉄砲伝来以前も中国砲術などもあったようですが、古式砲術としては種子島流や根来の津田監物による津田流が古く、稲富流は江戸幕府成立時には「田付流・井上流」と並んで、幕府3大流派といわれたが、一夢死去後は主流は井上流や後年の萩野流などが主流となり、稲富流は砲術流派としてはお役御免となり煙火の流派として再び名を成すようになっていった。
稲留流煙火が一夢以降どのように伝承されていったかの具体的記録はありませんが、「三河煙火の歴史・その3」に記載したように火術の弟子・沢田四郎右衛門や三河鉄砲隊により主に西三河に広く「稲留流煙火」として伝承される事になったようです。「稲留」の名は、稲穂の先端の上昇力から下降に向かう位置で開花させたという記述と稲穂の先端が垂れるところで開花させたと2説あり、はっきりしません。
稲富一夢が直接花火を始めたという記録はありませんので、おそらくその稲富流火術に精通した三河鉄砲隊や弟子で花火に関心のある者が始め、それが広く伝承されてきたと想像されます。
参考ホームページ <彦根市公式HP・彦根城博物館だより MuseumNews 55>
主な参考文献 <三河煙火史><幸田町史) |