花火と火薬の歴史
  



花火の歴史は火薬(黒色火薬)の歴史。

火薬の発見は、紀元前220年ごろ、秦の始皇帝時代から不老不死の妙薬を探しての錬丹術で用いられた硫黄・木炭・硝石に始まるとも、練丹術は金を作るための錬金術に発展、これらの本来の目的の中で、硝石・硫黄・木炭等が混合されることによる偶然の爆発性が注目され、火薬に発展していったと思われる

隋(589〜618)唐(618〜907)の時代には火薬や花火という記載が見え、その後火薬の配合法が進歩して、硝石の精製も進み、北宋(960〜1126)時代に兵器として又は爆竹等花火としても使用され発展する花火ものがたり

中国の三大発明として「火薬」「羅針盤」「活版印刷」はシルクロードを経由してヨーロッパに伝えられ14世紀にはイングランドやドイツにも火薬が普及、イタリア・フィレンチェは花火の創始と記録に残り、又鉄砲も作られたといわれる。中国とは別系統で、7世紀のギリシャにおいては、天然硝石に硫黄、油を混ぜたものが激しく燃える事から「ギリシャの火」として武器に用いられたとの記録もある
中国ではやがて蒙古の台頭(1214)と共に南宋では火薬兵器が進歩し、1260年フビライの即位、1268年南宋を占領、わが国には蒙古襲来・文永の役(1274年)弘安の役(1281年)として火薬兵器のお目見えとなる。この時使用された「てつほう」は鉄球に火薬を入れた炸裂玉で、投擲して使用した。火箭・火槍・火砲等さまざまな火薬兵器がこの頃登場している。この蒙古襲来時に火薬兵器の発達した南宋の兵が大量に捕虜になったとの事ですから、この辺りからも技術の収集があったと思われますが不明です。火箭(かせん)は矢の先端に火薬包を取り付け導火線を取り付けて発射、火槍は棒の先に噴出火薬を取り付けたもの、応仁の乱(1467年)の頃、三河の細川軍にてすでに狼煙とともに使用されたとも伝えられている〜三河煙火史
1457年太田道潅は江戸城築城のおり燃える土「燃土」を発見、これを精製し兵器として活用、この火薬を竹筒につめ空高く打ち上げ「流星」と呼ばれ、花火の創始という説
〜煙火の栞もあるが定かではありません。狼煙や火薬兵器を駆使した戦で連戦連勝し、敵対する上杉家や足利将軍に恐れられ、1486年7月15日に謀殺され、その技術は途絶えたとも又は後年の両国花火に引き継がれたとも云われる

煙火の歴史に欠かせないのが、ノロシの歴史で、万里の長城にもすでに出現、当初はわが国でも、664年唐の制度に倣い烽燧(ほうすい)が北九州に設けられた記述があるが、当初はいわば焚き火程度で、鎌倉期以降狼煙(のろし)として狼の糞を混入することによる着火性・煙の上昇力が得られ、火薬の伝来以後煙硝(黒色火薬)を使用した狼煙が主流となり多くの戦で使用された記載がある。

1543年種子島への鉄砲伝来以前にも「北条五代記」に1510年(永正7年)中国より鉄砲が伝わり1528年(享禄6年)にはすでに堺においてこの鉄砲が製造されていたと記されているが〜三河煙火史、これはさほどの性能はなく、普及はしなかったようです。
その前には応安元年(1368年)南蛮人が琉球へ伝えた鳥銃が日本への鉄砲伝来の最古の歴史という記録もあるそうです<〜愛知県特殊産業の由来>、火薬という軍事機密性の高い技術だけに、残された文献・確実な記録はほとんど無いようですが、これら単発的な史実からも、蒙古襲来を機に火薬技術は国内に浸透してきたと考えられます。

このように鉄砲伝来以前にも、軍用としての火薬、遊びとしての花火はあったようですが、旧来のその威力・性能はさほどの事はなく、確実な歴史であるこの天文12年(1543年)の種子島への鉄砲伝来がやはり日本における本格火薬技術による鉄砲の普及・花火発展の確実な歴史とされています。

以後はシリーズとして鉄砲伝来以後の日本の花火の歴史、三河煙火の歴史を花火関連歴史本を参考に時代背景・祭り等の背景などを基に探っていきたいとおもいます。地方史を主に調査していますが、やはり民族・祭り・宗教等の項目においても花火に関する記述は非常に少なく、その少ない史実でも繋ぎ合わせれば多少なりとも本質が見えればという段階ですので、参考程度にご覧下さい。また花火に関する古資料等の情報のお持ちの方の情報提供を併せてお願いいたします。


 硝石のはなし

火薬の歴史はすなわち硝石の歴史でもあります。硝石(硝酸カリウム・KNO3)という不思議な材料、近世までその化学的メカニズムは解らず、偶然の事故等によるその爆発的燃焼の要因物質として注目されて来ました。
狼煙に使用された狼の糞は独特の光と煙を発し、焚き火の煙とは明確に区別できたようです、これは乾燥した糞の中に含まれる硝石に起因する事は後年に判明、燃土もしかりで、この硝石は自然界には天然では存在しにくく、後年この硝石の生成法が確立して行く事になります。
硝石は化学式のように大量の酸素を含み、熱を加えると400Cで分解を始め、酸素を発生、さらに1000゜〜1200゜Cで酸化カリウム・窒素に分解する過程でさらに酸素を発生し、燃焼材である硫黄・木炭と反応し爆発的な燃焼(酸化)を引き起こす、これが火薬・花火に利用される事となった。後年花火火薬の主流となった塩素酸カリウムはやはり400゜Cで分解し、こちらは衝撃においても分解しさらに多量の酸素を放出する危険性な火薬だが硝石は衝撃による分解はなく比較的安全な火薬原料とされる。

黒色火薬の主原料であるこの「硝石75%」「硫黄10%」「木炭15%」のうち、硫黄は火山国日本では無尽蔵に産出が可能で、火薬の発達した南宋は逆に硫黄が無く、わが国から大量の輸出がされた記録もあるようです、又幕末頃のヨーロッパで発明されたマッチ生産での硫黄の需要期には明治初頭には一躍世界最大のマッチ輸出国にもなったようです。木炭も山国日本の得意の産物で優良な桐炭・麻炭等も容易に製造・入手出来た。
余談ですが、硝石は単なる酸素供給剤、木炭は単なる燃焼材ですがこれに火を着けると爆発するというのが不思議な事で、40年ほど前の三池炭鉱の炭塵爆発事故は記憶に残る出来事で、粉塵爆発というメカニズムが話題になりました。一部の微細な粉体はその密度により空気中の酸素のみで火を着けることにより爆発的に燃焼する、これは炭以外でも日常の砂糖や小麦粉などさえでも起きる事が報告されています、さまざまな粉塵が高密度で飛び散る環境には皆様火気にお気をつけてください。この空気中での必要酸素量に匹敵する酸素を一瞬に供給するのが酸素供給剤としての硝石等の役割で、よって空気中の酸素を必要としませんので、水中でも発火を続けることが可能となります。

さて火薬成分の大半を占めるこの「硝石」、これは日本も含め自然界にはほとんど存在しなかった。かろうじて中国、インド、後年のチリ等の天然硝石など一部の地域に限られ、ヨーロッパを含め多くは床下土や壁土など硝石の混ざった土から精製もしくは人工製造法を各地域の秘密裏に確立して行った。
この自然界での硝石の生成原理は、糞尿等の腐敗したものからアンモニア(NH3)が発生、土中の硝化バクテリアの作用で亜硝酸(HNO)が作られ、さらに空気中で酸化されて硝酸(HNO)が出来、硝酸は土に含まれる酸化カルシウム(CaO)と反応してCa(NOとなり、さらに灰に含まれる炭酸カルシウム(CaCO)と反応してやっと硝石KNO3が作られる〜火薬のはなし 。これらが自然界で偶然に太古の時代より特定の場所で蓄積され結晶化したのが天然硝石(半天然硝石)と呼ばれる。

この原理自体は近年まで解らず古くは古い民家や寺社の長期に乾燥した床下土を水に溶かし灰汁を加え上澄液を煮詰つめると硝石が得られた。但しこの方法では一度土を採取すると次に採取可能になるには半世紀を要するとの事で、人為的にこの状況を作り出す大量生産方式も編み出されていった。秀吉の朝鮮出兵に際し捕虜から聞きだして、前田藩による五箇山での製法が確立したともいわれる。

鉄砲伝来時には主に南蛮貿易にて中国やインド産硝石の輸入が主であったようだが、家光の鎖国が完成する1633年頃以降は日本の各地で、この床下土製造法が主に行われて、鉄砲火薬・花火の原料として供給されたようです。硝化バクテリアは乾燥した寒冷地を好むようですが、この国産硝石製造は五箇山や奈良盆地にとどまらず、江戸後期にはほぼ日本全国で大小の差はあっても幕府の厳重な管理のもと生産されたようです。そして火薬の生産・集積に当初より特別有利な立場であった家康ゆかりの三河地方や幕府の御三家・親藩大名や天領地で平和目的で火薬は花火へと発展してゆく。

この硝石を花火の原料とした黒色火薬は、明治12年頃には硝石に変わる塩素酸カリウムによる燃焼温度の上昇が各種の炎色反応材を生み出し、花火に鮮やかな色彩が付き、昭和に入り安全性の高い過塩素酸カリウムに変わるという変遷をたどるが、今なお黒色火薬も手筒花火や奉納煙火に多用され、花火の打ち揚げ火薬、一部割火薬、導火線、着火薬等として多く用いられている。

近年になり硝石がアンモニア合成法や空中窒素固定法等によって化学合成される1920年頃までの実に長い期間、硝化バクテリアという自然界の微生物に頼って来た事になりますが、このバクテリアも近年は衛生環境の変化と共に、その存在自体が消滅しつつあるとのようです。

                                  2006年1月18日現在                                    


画像・文章等の無断使用はお断りします
Copyright (c)2006 All Rights Reserved  中部の花火情報館 (TOP)  管理者&撮影者中川晃一