三河煙火の歴史・その2

(江戸期までの東三河煙火)
   中部の花火情報館

ここでは東三河での古い煙火祭りを紹介して行きます。豊橋吉田神社祇園祭が記録として一番古そうですが、この頃の記録は非常に少なく、花火の発祥の可能性のある祭りは他にも種々あります。西三河関連はその3にて

豊川進雄神社 綱火の祭典
豊川進雄神社(すさのうじんじゃ)は社伝によると創設は古く、文武天皇大宝元年(701年)に豊川右岸・鎌倉街道に沿った元宮(稲田神社)の地に牛頭天王をお祀りして雨乞いのお祭りを行った事を創始として、村上天皇天徳元年(957年)に今の土地にお迎えしたとあります。

明治以前は「豊川牛頭天王社」と称し豊川村の産土神として崇敬された。鎌倉期に津島牛頭天王社(津島天王まつりの鎮座する尾張海東郡の領主・大江一族が宝飯地方に入り音羽町萩を領有して天王社を開き周辺に広がったともあり、室町期に天王信仰が盛んになったようです。天正18年(1590年)には家康が江戸移封後、豊川流域一帯は秀吉の命で吉田城主・池田輝政の所領となり、天正20年(1593年)輝政の代官が当社の御宝殿を造営、この造営時の棟札に光明寺が柱一本寄進とあります、また江戸期にはこの光明寺から傘鉾の寄進などが見られますから、光明寺が神社の別当寺(神社を管理した寺)であったかもしれません。

神社記によると慶長7年(1602年)水野忠直が知行3000石で豊川村の領主となり豊川城を築城した折の記録で、まつりの19日晩は花火、つるし提燈つかまつり候、20日(現在の御幸祭)にはお神輿・御高鉾・神馬・かぎ山5丁・笹踊りつかまつり候と記されています。という事はすでに1602年以前から天王祭り・花火奉納が行われていたようですから、400年以上の歴史といえます。

綱火は当社西本会所の「花火縁起録」に万治3年(1660年)小笠原四郎右衛門義忠が久しく絶えていたものを再興したとの記録がある。20日の午後から行われる御神幸祭はお旅所(元宮)までお神輿・高ほこ・笹おどりで往復した。

別書「小笠原文書」では、寛文元年(1661年)始まりとあり1年食い違う(寛文元年=万治4年)が、綱火を出したとある。この小笠原氏は神社の有力な宮座(神社の祭祀を行う特権的役割の集団)で、21歳の時花火を再興したが、費用がかさみ、運営はままならなかったとある。その後そこで荒地を花火畑として開墾、享保2年(1717年)に6石3斗となり、天明5年(1785年)には21石2斗に増量、経験者が若い者に花火の製造を教え、若い者を東西2組に分け花火を競わせた、これが現在の豊川進雄神社の花火祭りの起源となっている。歴代の領主はこの開墾地を天王社除地として年貢を免除して祭礼に当てる事を認めている。綱火は古くは縄火と呼ばれ昔は三河の各所で行われていたと記載されています。
<花火ものがたり>によると、天保4年(1833年)から毎年続けてきたという記録もあり、豊川煙火として其の名遠近に知らる、中に綱火と称するは当氏子独特の技として有名なりとある。競技種目は「綱火」「ヤリ」「行き別れ」「逆火」「車火」「行き戻り」「追綱火」など詳しくは神社記で紹介されている。昭和43年愛知県民族無形文化財指定。

進雄神社の綱火
手筒花火
現在は「豊川進雄神社夏まつり」として7月20日に近い土曜日を中心に金・土・日と開催されています。
金曜日・神社境内--手筒花火、
      豊川高校グランド--打ちあげ花火約500発、からくり煙火23基(18.30〜21.45頃)
土曜日・神社境内--綱火・手筒花火(17.30〜21.45頃)

綱火は鳥居から拝殿の間、約120mを2本の麻縄を各120本ほどが放たれる、手筒は片手手筒(ヨーカン)から5斤手筒まで数名ずつ百数十本の放揚で、迫力ある最後のハネは見応えがあります。現在では多くの神社の奉納煙火で綱火は見せる煙火というよりは、文字仕掛け・絵仕掛け等の仕掛への着火に使用されるケースが大半ですが、見せる綱火としては、ここ進雄神社と豊橋の椙本神社が著名です。
     


兎足神社 風まつり
菟足(うたり)神社は三河の多くの神社の中では歴史が古く、祭神は「菟上足尼命」という穂国造を奉り、白鳳15年(686年)に当初の柏木浜から現在地に創建とありますから現東三河地区が「穂の国」と呼ばれた時代に遡ります。
延喜式内小社としての由緒ある神社で、<小坂井町誌・昭和51年>によると、第一の鳥居が奉献されたのは元禄年間の小笠原佐渡守であるが、その元禄4年(1691年)あたりは吉田天王社、羽田八幡社とならんで煙火は益々盛んになったとある。又神社本縁には煙火は元禄7年(1694年)と簡単に記載されており、盛大になったのは文化年間(1804年〜1818年)といわれている。
兎足神社の氏子衆は当時(小坂井・宿・下地・下五井・瓜郷)で形成、吉田天王社が城主の庇護のもと年々盛んになって来たものが、そのまま兎足神社献上花火として始められた事が考えられ、小坂井では兎足神社以外、宿の天王祭祭礼、小坂井の川施餓鬼や八幡社にも煙火を奉納した、明治初年からは静岡の奥山半僧坊・秋葉山・可睡斎にも奉納した。
山車は小坂井・宿から出され、建造は古く寛政3年(1791年)といわれている。神輿はさらに古く、延宝7年(1679年)に有志により寄進されている。

<三河国吉田名蹤綜録>には「菟足神社は下地(現・豊橋市下地町)の産土神で、毎年4月9日に下地川端で花火を出し、見物群をなす、よって祭神を知らしめる為にこれを出す」とあり、また当時の吉田神社(牛頭天王社)の祇園まつりの挿絵に描かれている立物花火や山車が現在の山車とまさに瓜二つです。
<吉田藩日記>には、慶応4年(1868年)4月9日に城主の奥様が下地村花火をご覧になられ、昨年に続き献上されている、又同6月12日は吉田の天王祭花火をご内覧、前11日には笹踊り装束、笠鉾を寄進されたとの記録があります。

これらの事から煙火奉納は、まず下地町の氏子により菟足神社の奉納として拡がったのではなかろうかと考えられます。
<小坂井町誌>による当時の祭礼の様子は
毎年4月10日を宵祭、11日を本祭として行われた(昭和44年より4月の第二土・日に変更)
2時半ごろ小坂井と宿から出る山車が社前に到着、白山・新町の2名による鳥居前の注連縄切りの行事が済むと、平井の八幡社から出た7〜8mの御鉾が参入、続いて太い注連縄を数十人で担いできて鳥居に架ける、この一団は笹踊りに隋従して境内に入り、神輿ががお旅所(若宮神社)に着くまで警護する。さらに続いて笹踊りの一団が練り込み、その笹踊りと笠鉾が境内を3周して、先ほどの御鉾を先頭に神輿渡御が行われる。

祭りは「風まつり」と呼ばれているように、五穀豊穣を風に願うまつりですが、歴史が古い神社だけに過去祭り内容も変遷してきたものとおもわれます。兎足神社は天王社ではありませんが、末社としてかっては近在の天王社が5社ほど見られますので、この祭礼形式からも吉田神社を始めとする厄除け神事の天王祭の影響がここでも見られます。

建物仕掛け

昼花火

夜花火

現在の煙火行事に関しては、過去観覧記録をご覧下さい。
特徴は吉田神社にかって出された建物仕掛けが現在も見られます、今は仕掛けの花火はランスですが、昔は和紙に硫黄を包み、これを絵柄に配した方式で、今は滋賀の「篠田の花火」の和火仕掛けにのみ旧来の方式が見られます。ここは昼花火が数多く出される事でも珍しく、約1000発近くの最大10号までの昼花火が見られます、夜は多重芯の名花や7色の各色八重芯牡丹なども人気です、又手筒は歴史の古さを感じさせられる、その厳格な儀式の進行は他の奉納煙火に類を見ないほどと云われています。昔は袋物・絵日傘(白雨・紅雨等)・ポカ物の曲物では国旗や鳩を入れたりと技術を凝らしたそうです。
新城市・富永神社祭礼

富永神社は天正年間(1573年〜1592年)は「天一天王社」と称し、新城市平井郷の産土神として崇敬され、慶長8年(1603年)2月3日現在地に歓請され若宮として崇めたのが起源とされています。創立当時の棟札には「奉新造立設楽郡新城村牛頭天王宮一宇」と記されています。明治元年神仏判然令により「富永神社」と改称、明治9年近郷15ヶ村の氏神となり郷社となりました。昭和20年11月に社格制度廃止とともに社格は消滅。
祭礼は寛文4年(1614年)に「天王御祭礼」として始まり、寛文9年には神輿が新調される。享保4年(1719年)に領主より「花火は隔年ナリ」とお達しがあったとの事ですから、享保以前の古くから花火を出していたようです。
その当時の花火としては、町庄屋から差し出された祭礼能の書類の中に「花火ニテ色々の細工物仕リ被キ物(開き物)、建物(立物)ト名付ケ、余程大駿なる仕掛け、ソノ外、筒花火等・・云々」とあります。明治以降も筒花火、大筒、打上げが盛んで、従来祭礼の時に花火を奉納して来たが、経費が掛かりすぎるので、お許を得て元文元年(1736年)から筒花火(おそらく手筒花火)だけとし、1年おきに奉納と決まった、明和の頃(1764年〜1772年)からは、それまでの能を休んで花火を出すようになったそうです。

祭礼日は昭和23年より10月10日とされ、現在は10月第二金・土・日に開催され、土曜日に手筒・大筒・仕掛け・乱玉が奉納されます。現在の奉納煙火の内容は別ページ「富永神社 観覧記録」をご覧下さい。氏子7町の祭りで、山車も繰り出し、多量の煙火が奉納され、奥三河最大の祭りと云われています。
手筒奉納 乱玉・トラの尾


以上主に記録に残る4ヶ所の祭りを紹介してみましたが。
豊橋吉田神社祇園まつりーーー永禄元年(1558年)
豊川進雄神社綱火祭りーーーー慶長7年(1602年)以前より
小坂井兎足神社・風まつりーーー元禄7年(1694年)以前より
新城市富永神社ーーーーーーー享保4年(1719年)以前より

他にも記録がはっきりしませんが「豊橋羽田八幡手筒奉納」「新城市八幡神社立物花火」「豊橋椙本神社綱火」「新城市一鍬田天王まつり」「新城富岡祇園祭り」など歴史の古そうな奉納祭りをあわせ、<煙火昭桜会さんHP>にても東三河だけで百数十ヶ所報告されています。豊橋市が多く、豊川市、蒲郡市、新城市、小坂井町と手筒花火を中心とした奉納煙火が盛んです。
大まかに1500年〜1600年代は花火創始の時期で、1700年代に入り花火が盛んになり、文化・文政年間(1801年〜1831年)以降が花火の最盛期となり、そのまま明治に入り、塩素酸カリの登場とともに丸い割物の打上げが急速に発展していったようです。
三河煙火で特徴的な事は神社が元天王社としての天王祭り(祇園まつり)が非常に多く、豊川右岸に河口の御津・小坂井から上流の新城市まで元天王社が密集しています、煙火奉納は疫除け神事でもあり、同じく火を祭る秋葉神社も煙火奉納が盛んで、昔(江戸期)は天王社の社や秋葉神社の常夜灯などが至る所で見られたようです。尾張も同じく天王まつり(祇園まつり)が津島神社や京都の八坂神社の影響で多いですが、尾張は主に山車まつりとして発展、三河も以前は笠鉾まつりが主でありましたが、煙火の発展と共に奉納煙火が盛大になりました。
愛知県の天王祭り・祇園祭りも其の内、情報を整理してみます、隣県においても三重県は天王まつりの花火が盛んですし、長野県は祇園まつりとしての奉納煙火が盛んのようです。祇園まつりも天王祭りも同じ祭りで、招請先による使い分けは無いようです。

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