三河煙火の歴史・その4

(明治以降の東西三河煙火)
 

明治に活躍した三河の煙火師

<参考文献は主に三河煙火史より>
文化文政期(1800年頃)前後からに盛大となった三河の花火、この頃になると木筒を使った打上も見られるようになりましたが、まだ主体は仕掛け煙火・噴出煙火・龍勢(流星)などで、幕末頃から著名な花火師による西洋煙火の研究により、明治維新と共に黒色火薬から塩素酸カりへの転換が進み、丸玉割物の完成へと進化する事になります。日本で今日見られる真円の菊・牡丹はいつから出来たかはっきりしませんが、花火師さんの話では、この塩素酸カリ導入以降であろうとの事です。現在の鮮やかな発色の丸玉は明治以降に登場となり、花火師も専門知識が求められ、従来の趣味の手作り煙火は法令の規制も厳しくなり大正期以降専門業者の誕生を促し、昭和に入り現在の花火がほぼ完成する。
仙賀佐十{仙賀流)
東三河の近代花火の祖とも云われる。<三河煙火史>を引用すると、彼は豊橋の指物屋の家に生まれ、武士になりたくて京都を目指した、折しも京は元治元年(1864年)蛤御門の乱、禁門の変と続く乱世で名を上げる機会であったが、彼が京都に着いたときは、早くも戦は終わっていた。佐十は焦燥の身を長崎へ向けたというから思い切りの良い方でした、時に14〜5歳位といわれる。長崎で一心不乱に煙火を研究し、やがて故郷豊橋に戻り、さらに研究を重ね、当時まだ国内には誰も使用していない塩素酸カリを用い、紅・緑などの鮮色光を作り、昼物の紫煙・黒煙を作り出し、「仙賀流」を興す
全国に名を知られる出来事は、
明治12年(1879年)の東京靖国神社大祭において、洋式花火を披露して喝采を浴びた、さらに明治23年(1890年)不忍池での憲法発布記念花火にも出品して各界を魅了したという。近代東三河煙火の祖と言われる、しかし明治35年(1902年)工場の事故でこの世を去ってしまった。

平山甚大(平山流)
<三河煙火史>で紹介されている豊橋出身、平山流開祖の煙火師。豊橋出身の中村道太郎(東京丸善本社副社長)の弟で、横浜で貿易事業を行い、東三河の煙火をアメリカに輸出した先駆者で、その後自ら煙火を製造すべく三河煙火を学び横浜で煙火工場を作ったとの事で、明治10年(1877年)横浜で初めて打ちあげ、明治16年(1883年)アメリカで日本人として初の花火の特許取得。仙賀佐十と並び東三河近代煙火の祖とも云われる。

鶴田民蔵・加藤龍蔵(稲留流→熊野流)
それまで足助〜下山と伝わってきた稲留流にこの両名が改良を重ね「熊野流」という一派を興した、他に類を見ない色彩と奇術で、特に仕掛け(立物)には卓越ものがあったという、熊野神社には民蔵の句碑があり、「明治6年(1873年)熊野流火術門人」と刻まれている<〜奥殿陣屋のすべて>。門人は300人とも、三河一円はもとより静岡県にも及んだと言われる。
奥殿熊野は成立年不詳、明治41年に村内の熊野神社・田祇神社・八坂神社・稲荷神社を合併し奥殿神社に吸収された後、昭和20年に再び分離して現在に至る。

中根泰蔵(荻野流・稲留流・熊野流→一光流)
別ページで紹介、熊野流をさらに発展させ洋式花火を取り入れて「一光流」を興す。秘法の伝授先は長野県北部から富山県にも及び、多くの伝授記録を残す。

長坂専次郎(専海流興す)
岡崎市細川町、幼少の頃から煙火を好み、研究の末「専海流」を編み出し、近隣にその名を轟かす。記念碑には安政元年(1854年)生まれ、明治19年(1886年)没すとある、享年32歳。

加藤小兵((稲留流・良光流・仙賀流→最明流)
安政元年(1854年)西尾市生れ、僧信道の得意としていた矢の技に長じ、仙賀流も取り入れて明治20年(1887年)最明流を興す。記念碑には「父は庄屋で、幼少より花火を好み家伝の書を読み、大いに戯技に属し青空に5色の彩煙を散し暗天に金銀の火花を出す、招魂祭共進会に奉納し時計銀杯等の賞を始め各地に於いて賞を得る数知れず、故をもって其の門に入門多し。・・」とあります。
最明流独特の緑の鮮光と菊に開いた外輪と内輪のあざやかな区別を有する打上げであったという、
芯入り菊の始めての記録。大正9年頃66歳で没す。2代目加藤長之助(明治20年生れ)煙火の許可制が施行されると、全国の煙火業者に先がけ「火薬類(煙火)製造主任」の第1号として登録され、その安定した割物煙火は三河の打上げ名人と称された。後継者が現在の蒲郡の加藤煙火(株)に歴代繋がる三河煙火の老舗。

磯谷仙二郎(稲留流)
現在の(株)磯谷煙火店の初代で、明治20年松平村(豊田市)に工場設立、稲留流を称されています。2代目三郎は岡崎天満宮の煙火に活躍、松平村は松平家の発祥地、すなわち西三河煙火の発祥地でもありますので稲留流の古い流れを、現4代目、今日の・磯谷尚孝氏まで引き継がれた三河煙火の老舗。尚孝氏は花火と音楽の演出に始めてコンピューターを使用した「メロディー花火」の先駆者。

稲垣力之助(武田流)
武田流として島清と呼ばれた花火師で岡崎矢作町島の稲垣清兵衛の2代目力之助は長崎で火術の研究をし、古来の武田流に西洋煙火を加えて改良し、一躍武田流の馳せた、弟子には無料で原料を分け与えるなどして、弟子は三河各地50余村に広まり、関西にも名を馳せた。明治初年には矢作で1尺の大筒を打ち揚げたとあります。明治7年(1874年)には奈良小山家と共に、全国で初の火薬製造所の許可を得ている。この分派が多く拡がり、戦後の三河玩具の主力を占める。

その他、別ページでも紹介した「鈴木徳兵衛」は明治20年(1887年)金魚花火を塩素酸カリを使用して銀魚を作り上げた。明治23年(1890年)天満天神が現在の中町に遷宮された折、煙火の許可がおり、市の記録によれば5寸玉250玉・4寸玉50玉とあるそうです、この氏子の伝馬町には萩野流の有川屋、門前町の稲垣兵次郎、前述の磯谷三郎らが協力、菅生祭りと共に発展した。萩野流は砲術の流派としては稲留流・井上流・田付流の徳川初期の3大流派の次世代の流派であるが、江戸期を通じ全国各藩に広がる流派で、花火の流派としての起源は不明、岡崎稲熊町が荻野流の盛んな刈谷藩の領地であった事もあり、この地で又、刈谷に近い安城・西尾で普及して行ったのかも知れません。

<花火ものがたり>によると、大正3年3/20〜7/31の東京上野の博覧会では岡崎の有川屋が三河花火の真髄という玉を打ち上げている。東に西に三河煙火の名声はとどろき、引く手あまたの大繁盛となり、とくに安城の成瀬氏・知立の中野氏は全国を又にかけ、花火の注文が殺到して追いつかず、時には花火会場で星を詰め、玉張りをして乾燥もほどほどに打ちあげていたという、真意はどうであったか、はともかくもそれほど三河煙火の需要は多かったようです。


洋式花火の登場

明治に入り、花火は劇的に変化します。それまでの花火は黒色火薬を使った花火で、薄暗い炭火色で現在は和火といわれる単色の花火で、枠仕掛けも現在篠田の和火仕掛けに見られる硫黄の燃える青紫の炎程度のものでした。そこでさまざまな炭を使ったり鉄粉等の混ぜ物に工夫したようですが、明治に入り塩素酸カリウムの輸入と共に、炎色剤を使った現在に見られるカラフルな洋火と言われる花火の登場となります。

塩素酸カリウム(KClO3は1786年ヨーロッパで発明された酸化剤で燃焼温度が2200℃位と高く、それまでの硝石の1700℃では無理だった、さまざまな合金との炎色反応が可能となった。紅色は炭酸ストロンチュウム、緑色は硝酸バリュウム、青色は銅化合物etc。 塩素酸カリウムがいつ国内に入ってきたかは、明治10〜12年頃とされていますが、上記の仙賀佐十は明治以前に長崎で研究し、明治12年にはこの洋火を打ち揚げていますので、もう少し早そうです、塩素酸カリがあっても炎色剤が無ければ意味ありませんので、やはり明治初期〜明治20年までにはこの3色は出来たのではなかろうか、その後大正中期までにはアルミやマグネシュウムが光輝剤として登場、燃焼温度も2500〜3000℃と飛躍的に上がりさまざまな発色が可能となった。この頃には煙火打上げ筒も従来の木筒から鉄製に変わり、大量打上が可能となった。
しかしこの塩素酸カリは衝撃によっても発火する危険な火薬でもあり、全国で事故が多発し、比較的安全とされる過塩素酸カリウムに移行するのは昭和中期〜40年代頃になる
下記写真は現代の花火ですが、此処まで鮮やかな発色を得る為には昭和期〜戦後まで、研究試行錯誤されて来た結果でしょう。現在の各種花火の原型は大正末期までには大方出揃ったようです。

和火仕掛け・篠田の花火 大筒(大のし) 和火打上げ割物
 和火花火、明治20年頃までは花火といえばこのような和火。
現在でも手筒花火も含め奉納煙火では黒色火薬が安全性
からも多用されています。打上げ花火も和火が見直され人
気もあるようです。


 現在の洋式花火

洋火絵仕掛け(ランス) 創造花火・万華鏡



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