一光流始祖 中根泰蔵
 

一光流煙火の始祖・中根泰蔵

岡崎市北部の奥殿で稲留流煙火鶴田民蔵・加藤滝蔵らによって大きく発展した頃、奥殿藩の上級藩士であった中根泰蔵は以前から萩野流火術の免許皆伝であったが、稲留流を学び、又江戸煙火も研究の上、一光流(一光神法)を興し、元治元年(1864年)「火術火伝の奥義書」を記す。泰蔵は文武に長じただけではなく、打ち揚げ煙火の製造技術に優れ、又煙火の伝授にも積極的であった為、弟子は400名を越えたといわれ、三河一円はもとより長野県全域・富山県・石川県にまで及び、その伝授の折の「神文証」が数多く残る。まさに三河煙火の伝道師的存在であります。維新後は元藩主の赦免活動に奔走し、その後士族としての身分で、陣屋の管理を任されたようで、後の岡崎市長中根鎮夫氏に繋がる由緒ある家系です。明治39年(1906年)死去。

<本ページの写真は奥殿陣屋にて平成16年、現地での撮影・HP掲載許可を頂きましての撮影分ですが、支障があればご指摘下さい。>


中根泰蔵氏
神文証」には取次人立会いのもと、<秘密を守り親兄弟といえども他言せず、違えれば日本中の神仏の罰を受ける>由の記載がされています。伝授先の一部としては。

■明治13年・愛知県東加茂郡松平町赤原村  笠原氏外3名連署
■明治14年・富山県砺波郡荒川村        小田氏外3名
■明治22年・長野県下高井郡穂波村村     春日氏外2名
■明治23年・長野県上水内郡長野町       島津氏
■明治30年・長野県・伊那郡大鹿村       古島氏外3名

又、<長野郷土史研究会機関誌・第208号・特集煙火>によりますと、長野県中野市の明治期に龍勢で名を馳せた「竹原の花火」に伝来先として「三河のイッコウ流」とありますので、おそらく一光流と思われます。
明治期以降の洋式火薬(塩素酸カリ)を使った、割物丸玉は従来の黒色火薬の単色花火から光輝の強い色物花火の登場ですから、一光神法と命名されるほどの、衝撃的な花火であったのでしょう。


長野県へは下伊那・飯田方面の奉納煙火に享保16年(1731年)の清内路煙火をはじめ、東西三河からの伝授が主流とされていますが、長野県北部とも結構三河煙火との交流があったようです。<花火ものがたり>によると須坂市へは文政8年(1825年)須坂の城主が、祝い事の折、たまたま三河の花火師幸右衛門が来遊し、城主が花火の打上げを頼むことになり、当日は7号玉に仕込んだ大鯉2匹の袋物が大評判となり、これが須坂の花火の起源ともされているようです。この幸右衛門氏の三河での由来は謎です、袋物の鯉といえば、岡崎日名が名を馳せていましたが不明です。

前述の鶴田民蔵・加藤滝蔵熊野流も門人は三河一円〜静岡県にも及び、300名とも云われていますので、この江戸期後半から明治期には三河花火は長崎での洋火の研究や江戸での交流等による技術も相当進み花火王国として関西〜東北まで名をなしていたそうです。文化文政期の仕掛け煙火等奉納煙火の全盛期に続き、明治以降の打上げ煙火・割物玉全盛期へと引き継がれて多くの名花火師を輩出していきます。



奥殿陣屋
奥殿陣屋は松平家支流の大給松平家の分家として、松平直次が大阪の陣の軍功により奥殿藩(岡崎市奥殿)の初代藩主となる。藩は三河に4000石のほか信州佐久に12000石を領した。この陣屋は宝永4年(1707年)大給(豊田市)から移されて文久3年(1863年)信州へ移るまでの7代152年間、ここで領民支配の中心であった。この建物は明治9年(1876年)一時移転し、昭和60年(1986年)にこの地に再移転された。
11代藩主松平乗謨(のりかた)は江戸幕府の陸軍総裁や老中各として徳川慶喜を補佐、文久3年(1863年)本拠地を信州田野口(臼田町)へ移し、名も大給へと改称、龍岡藩と藩名も変え幕府と決別し明治維新政府に恭順を示し、北越戦争にも官軍として参加した。
ここで建設中であった龍岡城は五稜郭(現在函館と此処だけ)と呼ばれるフランス式の先進の城で、明治元年(1868年)にほぼ完成したが明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城となる。元幕府の要職であったため、維新政府より一時謹慎処置となるが、上記中根泰蔵らの赦免運動で、すぐに維新政府で活躍する事になる。日本赤十字社の創設に名を残す、岡崎での藩政時代は地域に貢献、住民に親しまれ、信州へ移転の際は住民より移転反対の請願書が出されたほどでした。奥殿藩としては当時、城は無く、この陣屋を藩丁としていました。現在は陣屋は観光用に開放、中に小さいながら「三河煙火展示資料館」が設置されていますので、花火にご関心の方はご覧下さい。
この東側には隣接して、奥殿熊野神社があり、前述の鶴田民蔵・加藤滝蔵による熊野流煙火の発祥地として、当時は奉納煙火が盛んで、特に独特の巨大な枠仕掛け・立物花火は人気があったようです。

三河花火展示資料館

小さな小屋ですが、開放された正面から、まず目を引くのが巨大な打上木製筒(おそらく10号用・H2.5m)です。木製筒は二つ割の木をくり貫き、竹のタガでしっかり締め付けてあります。一般的には鋼製筒は大正中期頃からで、それまではこのような巨大な筒を使用していたようです。木筒では今日のような連続早打ちは出来ませんので、当時は長大な時間を使って、1発ずつの打上げを楽しんだようですね。点火は下部の点火孔からとのようです。
奥殿陣屋入口 資料館内部 当時の6号玉模型
木製打上筒(江戸期作)
左から現在の10号鋼製筒
木製10号筒
木製の6号筒
松平東照宮奉納で使用された手筒 当時のスターマイン
玉皮 当時の玉模型(中根家蔵) 当時の玉模型(中根家蔵)


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