行疫神とされる牛頭天王(現在は習合思想により素盞鳴命と称されている)を祀って厄疫退散を願う祭りは京都の八坂神社の祇園祭が有名ですが、この津島神社(元・津島牛頭天王社)も2大天王社と称され、分社・末社は八坂社より多く、全国に3000社以上と云われる夏まつりを代表する天王信仰の総本宮とされています。
祭りの起源は定かではありませんが、一説には外来の神である天王様は海よりお越しになり、姫路の広峯神社からは八坂神社に遷座され、又津島では津島の市江島に着船の折、疫病が流行したのでこの神様を奉じる祭りが始まったともいわれています。祇園祭りも天王まつりも基本は疫神に対する神送りの神事で、津島神社の天王祭も神社で奉仕する御葭(御葦)神事と奉賛会の奉仕する祭事で主に構成されているようです。
田植えも終わり、梅雨も明ける旧暦6月14日・15日の満月の日が当初は多くの神社で行われ、暑い夏を迎えての疫病退散を願う祭りで、川の葦(あし・よし)を切り取り持ち帰って奉じる「神迎えの神事」に始まり、お迎えした神様を各種芸能や盛大な祭りでもてなし、祭りが終わると多くの厄疫・穢れのついた「御葭」(みよし・おみよしさん)を川に流し、ご退散を願うという「神送りの神事」が、古くは各地で又現在なお行われています。この流された御葭はやがて何処かに流れ着き、その場所に注連縄を張って着岸祭を行うとの事です<〜以上主に愛知県祭礼辞典より引用>。
江戸期には各地でこの流された「御葭」、穢れが付いているとはいえ神様の分身である故に拾って奉じ厄病退散としたいとする民衆の奪い合い等も多く大騒動となり、時の藩主にて「神送りの神事」を禁止された地区もあったほどの人気であったようです。
疫病神を祀るというのは不思議な気もしますが、この思想の背景には、古くから全国に流布されていた有名な「蘇民将来伝説」に基ずく、概要は諸説によりさまざまですが、一例として、武塔天神が妻をめとる旅の途中、宿を求めたが裕福な巨旦将来は拒否し、貧しいながらも兄の蘇民将来は快くもてなしてくれた、やがて武塔天神(牛頭天王)は妻(頗梨采女)との間に出来て成長した8人の子(八王子・八将軍)を従えて巨旦将来を滅ぼし、蘇民将来には子孫共に茅の輪を祀れば安全を保障するとし、旧暦6月末の各地で盛んな茅の輪神事(夏越し神事)の由来となる。要するに「自分は疫病神であるが、奉れば庇護してあげる」、行疫神と除疫神の2面性をもった神様として修験道や陰陽道の広がりとともに理解されてきたようです。隣町で派手な祇園祭り・天王まつりが行われ、当地ではなにもせず赤痢や疫病が蔓延、これは堪らんと津島社を歓請し、社を建て津島代参として代表者でお参りし、持ち帰ったお札を奉って天王祭りを催したという話が各地の郷土史に見られます。
由来は諸説があり判然としませんので兎も角として、この津島神社の天王祭り、その豪華絢爛たる祭りは各地に大きな影響を与え、又京都祇園祭りの影響もあり尾張全地域では盛大なからくり山車祭りへと発展、三河でも各地に無数の天王社(現津島社)が歓請され、笠鉾まつりなどが各地で見られ、又天王信仰の広がりとほぼ同じ時期に三河においては花火が発生・発展し、天王祭りに奉納煙火としての煙火が盛んに出されました。
全国のほとんどの山車・屋台・笠鉾・ダンジリ等の出される祭り、お旅所を設置した神輿渡御を伴う厄払いの祭りは、この八坂神社や津島天王社の祇園祭・天王まつりに起因もしくは影響を受けていると云われ、医療技術の未熟な、冷凍保存など無い当時においての食中毒・コレラ・赤痢等の疫病退散は公家社会・武家社会・庶民を問わず共通かつ最大の関心事で、身分を横断的に非常な勢いで広まった事が多くの文献に見られます。
津島神社は明治維新の神仏分離政策以前の江戸末期までは「津島牛頭天王社」と称していました。
津島神社の縁起を記した津島牛頭天王祭文には、欽明天皇元年(西暦540年)に「対馬より東海道海部郡門真庄津島の津へ来たり」とあるが、延長5年(927年)成立の延喜式神名帳にはまだ記載は無く、文献上の登場は承安5年(1175年)に見られ、平安末期には全国15ヶ所の権現大明神の中に入るほどの大社となり、室町期後半から東日本中心に広く天王社末社が設けられ、時の領主の庇護・援助のもとに天王信仰が広められてゆく。信長の氏神とも云われ、秀吉、家康と歴代庇護され正保4年(1647年)には尾張藩初代藩主徳川義直から神領として1293石が寄進されている。この石高は熱田神宮を除けば尾張藩の寺社への寄進領地としては最大の石高とされる。<以上主に1999年名古屋市博物館発行の尾張の天王信仰よりの抜粋記載>
又津島神社では秋祭りも盛大で、毎年10月の第一土日曜日には13輌の山車が各町内から引き出され、津島駅前でからくり人形大会が催されますので、ご関心の方はお越しください。
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