花火も日本の各地域毎、特色がありますが、愛知県(三河花火)の特色は
歴史的に徳川家康の生地である三河地方が、鉄砲の火薬製造所として保護されて来た事もあり、現在も多くの業者がそのまま近世の許認可を受け、花火製造、オモチャ花火製造、販売、花火材料、卸問屋等愛知県内ほとんどの業者が、三河地方に集中している。
特に手筒花火は豊橋市の吉田神社が発祥の地ともいわれ、多くの神社の春、秋の奉納煙火として盛んに行なわれています。その数はリンク先「煙火昭桜会」の調べだけでも百数十ヶ所にのぼり、正に日本の手筒王国とも云えます。伝統花火である枠仕掛け、綱火、火車、金魚・銀魚花火、乱玉、流星(トラの尾)、銀滝、大筒、建物花火、立物花火、等が現在も奉納煙火では多用されています。花火も砲術家の秘伝の継承により、やはり三河が発生地の一つとしての代表的な花火産地の地位を築いています。花火火薬の生産量、おもちゃ花火の製造、販売、手筒生産等いずれも日本を代表する花火どころです。
県内花火製造・打揚げ業者としては(順不同)下記10社
(株)磯谷煙火店、加藤煙火(株)、中日本火工(株)、(有)豊田煙火店、(株)挙母煙火店、豊橋煙火(株)、(有)村松煙火工場、
久世煙火店、磯谷煙火工場と活躍されているし、尾張地区では高木煙火製造所。 |

愛知県煙火業者分布図
(日本煙火協会の煙火業者会員名簿を参考)
愛知県の煙火といえば、すなわち三河煙火で、図のように三河に業者が集中しています。岡崎市・安城市は特に玩具花火業者が集中して全国のおもちゃ花火の製造・卸・輸入の集積地となっているようです。
三河煙火の歴史は昭和44年の愛知県煙火組合発行の「三河煙火史」(非売品)等を参考に、その内概要をまとめてみますが、1600年の関が原決戦以降に尾張家家臣となった砲術家・稲富直家による稲留流から派生した煙火が西三河打ち揚げ煙火の主流で、もう一つの流れとして甲斐の武田流火術の影響による流派と荻野流砲術の流派があるようです。稲留流は「(株)磯谷煙火店」さんと、この稲留流と豊橋の仙賀流の技術を入れて最明流を興した「加藤煙火(株)」さんとが稲留流を脈々と今に受け継ぐ三河打ち上げ煙火の2大老舗煙火店としてご活躍中です。
武田流・萩野流は戦後おもちゃ花火を主流として打ち上げ煙火から転向して最盛期は全国のおもちゃ花火の流通の80%を占めるほどでした、現在イベント花火や低寸玉の打ち上げも一部担当、東三河は豊橋が吉田藩の庇護を受け奉納煙火が早くから農民に浸透、吉田神社の煙火奉納が文献上1558年とされ、今なお奉納煙火・手筒花火王国となっています。打ち揚げ花火の流派としては明治初期洋式火薬をいち早く取り入れた仙賀佐十による仙賀流の名を現在も目にします。歴史の古さと現在も盛んに開催されている手筒花火を中心とした東三河伝統の奉納煙火は特筆すべき煙火行事です。
本地図は白地図kenMapV、8にて作成しております |
東三河地方は古くは「穂の国・穂国」と呼ばれ、701年の「大宝律令」の制定とともに、西三河「三河国・参河国」と統合され「三河国」となりました。中央集権国家として各国には行政官吏として国司の拠点として国府が置かれ、国はさらに、郡、里(後年は郷)に分けられました。国府は豊川市国府町辺りにあったとの話がありますが、場所は不明です。吉田城(豊橋)が軍事拠点として、政治的に東三河の中心となるまでの間は現・豊川市周辺も重要な場所でした。古墳関係は豊川以東に集中していますので、古代は此方が中心のようで、海上交通により渥美半島や湾岸地域経由で熊野・伊勢神宮との交流も古く、除福伝説もあり、政治、文化、宗教の影響が見られます。
鎌倉期に足利家三代目の足利義氏が下野国(栃木県)より三河守護として移封のおり、細川家始め一族を引き連れて戦国期まで、ほとんど足利家が三河守護として支配、一族は当時の地名をとって改名。細川氏は岡崎の細川町の地名より、仁木氏は額田郡仁木、吉良氏は吉良町、一色氏は一色町、今川氏は吉良庄今川(現・西尾市)から後年駿河を支配というように、主に一色・細川家などが守護を勤めたようです。鎌倉末期には足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼし室町幕府を開府する際、三河の足利一族の軍事支援の確約を得られたことが蜂起決断(岡崎矢作の地で決断したと云われる)の大きな要素とされています。功労のあった細川家は三河を地盤に大阪南西部・四国阿波周辺に大勢力を擁していきました。しかし足利政権も長く続かず、応仁の乱から戦国時代に突入、三河の足利一族も一色×細川・吉良×仁木と一族が分かれての戦乱のなか、西三河では細川方武将であった松平家、東三河では豊川周辺の牧野家、豊橋南部の戸田氏らが勢力を伸ばし、今川の西進と共に、吉田城の攻防が続き、信長が桶狭間で今川義元を討ち取る1560年までは、東西三河の大半は今川家の支配となっていました。
三河という地名の由来は諸説ありますが、<東三河郷土雑話>によれば、矢作川が古くは「加茂の御川」と呼ばれ、この川で採った魚を皇室に献じた事によるともいわれる。
豊橋は以前は吉田と呼ばれ、さらに以前は今橋と呼ばれた、豊橋という地名の由来は<国史上より見たる豊橋地方>によれば、明治2年6月25日、伊予国(四国・宇和島)にも吉田藩があって間違いやすいとの事で、吉田の大橋が豊橋と云い元来有名であるという事から橋の名をとって豊橋としたとのようです。
昨今、市町村合併で多くの古い地名が失われているようですが、地名はかかる歴史にとっても多くの武将が支配地の地名を取って姓名にするほど、土地に対する愛着は強く、ひいては後世の歴史研究にも重要な手掛かりともなります。各地域の皆様・行政の皆様も安易に地名変更せずに、歴史ある地名を何らかの形でも残される事を願っています。 |
応仁の乱ころにはすでに火薬兵器があったようですが、確実な歴史を種子島の鉄砲伝来以降とすると、文献で最も古いのは「豊橋吉田神社(旧・牛頭天王社)の天王まつりの奉納煙火」となるようですが、東三河は他にも豊川地域の「豊川進雄神社(旧・豊川牛頭天王社)の綱火祭り」や小坂井の「兎足神社・風まつり」、新城市の「富永神社(旧・天王社)」等歴史の古い祭りが多く、豊川沿岸に数多く広がる旧・天王社での天王まつり(祇園祭り)と共に急速に広がっていったようです。西三河は代表的花火大会は岡崎菅生神社(旧・菅生天王宮)ですが、他に多くあったとされる奉納煙火も具体的日時のある文献はあまり存在していません、稲留流砲術家の弟子たち、松平郷での三河鉄砲隊による花火等が伝承されて来ました。
<三河煙火史>によると応仁の乱に関して使用された火薬兵器について、「碧山日録」に、<応仁の乱の時、細川成之勢が“飛火槍・火槍”を用いた、・・・讃州守成之の営、城下のかためとす。串櫓・飛砲火槍・戦攻の道具いたるところ、ことごとく備わる>と記載されている由、又は「西国事物起源」という書には<支那の火戯、欧羅巴(ヨーロッパ)に兎いるに及び、西国の火戯急にその歩を進めたり・・・>ともある。
細川成之は宝徳元年(1449年)三河・阿波(徳島県)の守護を兼ね、応仁の乱においては東軍の中心勢力として活躍、文明5年(1473年)讃岐(香川県)守護を兼ねる。
余談ですが阿波(徳島県)も奉納煙火が盛んな地域で、吹筒は飯田・伊那の大三国に良く似ています、前述の細川家や足利家は三河・阿波を守護として領有、江戸期は尾張蜂須賀庄出身の蜂須賀家が領有し、天正13年(1585年)徳島城築城を祝って阿波踊りが始まる、蜂須賀に縁のある墨俣城での花火大会では、阿波踊りが出し物として出されています、また東三河からは奉納煙火の友情出演として手筒組が奉納参加、江戸期の三河との商業交流としては、矢作川の水運に関して、阿波鳴門の斉田の塩が矢作川〜岡崎(帆船)〜足助経由で飯田まで(中馬使用)運ばれていた記録が種々あります、帆船は風向きを考慮して夏に多く利用されたようですから、岡崎地方の奉納仕掛煙火、飯田の大三国の影響・交流がおそらくあったと考えられます。讃岐(香川県)は花火の盛んな御三家水戸家の2代目が領主となっている、また土佐・阿波は隠れた鉄砲の一大生産地でもありましたので、煙火の古い歴史が想像されますが、この項はご当地の方の調査にお任せするとして。
さて、戦国期1542年・1548年の2度に亘る小豆坂(岡崎市)の合戦は織田信秀(信長の父)と今川家の三河の覇権を巡る合戦ですが、この折今川方の松平勢でノロシが使用され、軍の進退に効果的な役割を果たしたなどの記録がある。
1543年の鉄砲伝来から15年後の1558年には「古老伝」に、1560年には「吉田神社略記」にも豊橋吉田神社での奉納煙火が記録されています。この記載年代が早すぎると指摘される向きもあるようですが、果たしてどうなんでしょう。鉄砲はこの頃すでに各国に普及していますから、武士階級・火術家には火薬が扱える環境にあったでありましょう。又次いで古い花火の記録として豊川進雄神社で1602年城主が新任の折、花火行事がすでにあったとの記録もありますので、突出して古い記録とは言えないようです。この頃の吉田城を巡る歴史概要は以下のようです。
<〜以下、とよはしの歴史より・豊橋市発行>
この頃今川氏の勢力は東三河に及び、当時の2大豪族牧野家と戸田家を従属させる勢いで、この牧野氏は元は讃岐の住人ともいわれ、4代将軍足利義持の命で宝飯郡牧野村(豊川市牧野)に移り、牛久保の一色家家臣であったようです、やがて一色家を滅ぼし牛久保城主として豊川西岸に勢力を広げた、しかし今川の進出により、これに従属、永正2年(1505年)に今川氏親の指示により今橋城(吉田城)を築城して移り、西三河で勢力を伸ばしていた松平氏に備えた。この後この城は松平氏・牧野氏・戸田氏と争奪戦の末、天文15年(1546年)今川義元の占領にてひとまず決着し、直接支配のため城代を置いた。この城代名は種々記録があり正確に城代毎の担当年代ははっきりしません。
その後、義元は豊橋地方の本格安定支配に乗り出し、天文16年(1547年)から永禄元年(1558年)にかけて吉田神社を始めとして多くの社寺関係に寄進・造営し、民心を得ようとした義元の配慮がうかがえる。吉田神社の煙火奉納が起こったとされる1558年頃はこの地方で最も安定した、恵まれた時期であり、奉納煙火が行われたとしても不思議の無い時期でありました。
やがて1560年に桶狭間の合戦で今川義元戦死後は徳川家康が吉田城を1562年から攻撃開始し、永禄8年(1565年)に当時の今川方城代・小原鎮実を開城させ、領有し家臣・酒井忠次に与えて支配させた。家康はその後、秀吉の命で天正18年(1590年)に江戸で移封となり、此の時家康に従属していた牧野家は越後へ移封、後の長岡藩主となり幕末まで続く。
やがて家康は慶長5年(1600年)関が原の勝利で天下を治めると、慶長12年(1607年)には秀忠に将軍職を譲り、駿府城で隠居となる。家康は鉄砲には以前から特別関心が強く、駿府にお気に入りの砲術家・稲富一夢を呼び寄せて弟子として直接火術・鉄砲術を学んだとされる、同時に地元三河松平郷の若者等を中心にした護衛鉄砲隊は家康死後、元和2年(1616年)地元に戻り花火の基礎を確立していく。幕府の火薬に対する厳しい監視・管理のもと、幕府地元ととしての特権を得られたことは、三河花火発展にとって実に恵まれた環境であったといえるでしょう。徳川家が発祥の地である三河を特別視したことは、<岡崎岩津天満宮の公式HP>の「岩津風土記」によると、幕末期嘉永7年(1854年)発行の「萬世武鑑」に、当時の全国の大名268家中「本国三河」と記された大名が実に半数の135家を占めたそうです。
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現在の吉田神社祇園まつりは
7月第三金・土・日に開催され金曜日は手筒花火、土曜日は12000発の花火大会が開催されています。
■現在記録に残る三河煙火発祥の地として、平成5年6月に吉田神社境内に右図の「手筒像」と「手筒花火発祥の地記念碑」が建立されました。記念碑文には。
「三河国古老伝」に「永禄元年(1558年)天王祭禮祀ノ花火ト云ウ事始メル」とあります。また「吉田神社略記」には「花火の創始は羽田吉田綜録に永禄3年(1560年)大原肥前守智尚公花火を始めるとあり。花火の大古より用いられしは流星、手筒とす。然れども其大なるものなし。次いで建物綱火等用いられるも亦然り。建物の巨大なりしは元禄13年(1700年)にして手筒の雄大となりしは正徳元年(1711年)なり。当時これを大筒という・・・・・・・・云々」
■<郷土史家・大口喜六氏は、その著(国史上より見たる豊橋地方)>で、この元禄13年(1700年)の建物は長さ13間(約23・5m)、巾3.5間(約6.・3m)その費用は24両であったと記されている。 |
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■曲亭馬琴は享和2年(1802年)発行の「奇旅漫録」で当時の見た様子を記している。
三州三河の天王祭は6月15日、今日の花火天下第一と称す、大筒と称するもの、2本の周囲数十尺、高く櫓を組みて・・・、その他種々の花火あり、大筒(建物花火の事と思われる)の資材は城主よりこれを出される、・・・・・。
■同じく文化年間(1804〜1818年)初頭に記されたとされる「三河国吉田名蹤綜録」では当時の様子が詳しく記されていますので、少し長くなりますが、主要部分を引用記載して見ます。作者は通称「山本権平」氏で、元は山本家は今川の家臣で、桶狭間以後帰着して下地(豊橋市)に定住したとある。昔の方はやはり文章がお上手ですね、実に簡潔に要点をまとめられています、当時の様子が手に取るように判り、貴重な情報量も豊富です。
例祭は6月15日なり、先14日の夜は試楽(しがく)と称して花火を出す。其大造見ぬ唐土はいざしらず、凡日本無双の事とて国中はいふをさらなり、他国より旅行をかけて見物にくるもの多し、まず建物といへるもの、本町と上伝馬町と2本あり、其高さ廿間計の大舟の帆柱のごとき柱を立、巾四五間の障子の如きほねを結付、その中に獅子に牡丹或は瓢箪に駒又は柳に燕などの絵様を花火にて存置、其絶頂に種々の曲花火をしかけ、相図の火をふりてこれに火をうつす時は、黒煙忽四方に散乱し火光雲に映じ其響霹靂(へきれき)を飛するごとく天をやくかと見え、見物の諸人はエイエイの声大地もゆるぐ計に聞なされ、諸国より初て来るものは肝をけし、途を失うて逃出すもあり、此時屋上にて見物の諸人はみなぬれ物をかぶりて火をさくる事なり、次に大筒といふは廻り四五尺の木の中をくりぬき、夫より大竹にて箍を間なくかけわたし、これに花火を仕込、大釜をふたとなし、大きなる台にすゑ、其台の中には土俵三拾俵計り積置也、これは火移りし時、台の動かざる為なり、己に其釜をとりのけて火をうつせば鮮花高くのぼり四方にさつと落くる景色、吉野龍田の花紅葉深山颪(おろし)にさそはれて一度にぱつとちりぬとも、これにはなどか及ぶべくぞ思はれる、此時も屋上の見物ぬれ物を被く也、これは上伝馬町・本町・萱町・御輿休町などよりみな銘々本町へ持出てはなすなり、其外打ちあげの花火は上り龍・下り龍・星降りなど種々のしかけありて、雲間にかがやき見ゆるも夏日暑ささくるの一助なるべし、又開物と云ものあり、其外龍勢大なし玉火などいふ花火は数万ありて或は家の中より出しどするゆゑ、他国より初て見物に来たるものは、大に肝を消すも尤もなる事也、実にや吉田の花火は聞より見るが百倍なるべし、又かくのごとく火をみだりに取あつかへども、むかしより少しもあやまちなきは誠に神のしずめ護り給へるなるべし。
翌15日の祭式は、まず寺社六ヶ所より飾山8組を出す、是をかさぼこ(笠鉾)と云、車楽2両あり、壱両は上伝馬町、壱両は礼木町より出す、又城内(吉田城)天王小路にて十二疋の馬競馬あり、次に笹踊と云は萱町・指笠町より出る、大太鼓壱人萱町より出る、小太鼓二人指笠町より出る、何れも錦繍の陣羽織衣装を着し、美麗なるぬり笠をかぶり囃子方のものは風流なる浴衣に編笠をかぶり大勢同音に謳ひ踊る。
今はむかし一とせ此花火の夜、関東道者吉田にとまり合せ、幸の事なりと大によろこび、晩食などしたためて所々見廻りて帰り、何様聞しより大造なる事なり、しかし建物とやらなどへ火をつけたらば決て火事にありそうなことなり、此家ごみの所にてあまりな事どもとつぶやき居けるが、追々花火の出るにびくびくして見居たり、やがて建物へ火をつけ見物の人々一同にどよめきたつと、そりゃこそというて内にかけ入、荷物を引さげかけ出る故、亭主驚き御客がたは先刻から御あんじなされし様子なれば、定て火事と思ひての事ならん、あれは建物へ火をつけしにて少も御気遣ひな事にはあらずといはれて面目なく、又あきれながらへらず口にて、建物はしつて居れどあのあかりを幸に今から出立せうと思うての事さ。
以上の落し噺はあまりたはれに過たる事ながら、いにし年ありし実事なるまま、ここにしるして花火の大造を知しめん為に出せり。
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こうして見ますと、建物仕掛がメインの出し物のようです、現在は建物は行われず、名残が兎足神社の建物や新城八幡神社の立物に見られます、大筒や玉火(手持噴出花火)、大なし(固定噴出)などは見られますが手筒がここでは出て来ませんね、別の日か別の場所かが不明ですが、現在は試楽祭(土)・本祭(日)の前日金曜日が手筒奉納となっています。打上の開物とはポカ玉の袋物か傘でしょうか、龍勢はロケット花火では無く、流星・トラのような星打ちでしょうか。挿絵がありますが、民家に挟まれた街道のど真ん中に巨大な建物が設置され、大筒が火を噴き、玉火を持ち、空にはカムロ状の花火が咲き、兎足神社(風まつり)とよく似た山車が置かれ、牛頭天王祭礼と大書されたノボリがはためいています。
吉田神社は創立時期は諸説あって判然としませんが、治承2年(1178年)には源頼朝の名代が代参したと記録されている古社で維新政府の神仏判然令以前の江戸期までは吉田牛頭天王社と称していたようです。厄除け神事を中心とする祭りは今は「祇園祭り」と称していますが以前は「天王まつり」と称していました。
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